プロジェクト事例

プロジェクト事例

最高速度は130~140km/hに達し、「氷上のF1」と呼ばれるウィンタースポーツ、ボブスレー。選手の技術だけでなくソリの性能の差も勝敗の鍵を握ることから、近年は世界代表のソリ開発にはBMWやフェラーリといった超一流メーカーが協力しています。

「下町ボブスレーネットワークプロジェクト」は、大田区の町工場が総力を挙げて日本製のソリを作り上げ、世界のトップ企業の技術力に挑戦するプロジェクトです。その中で、ムソー工業はソリの底面に備える「ランナー」と呼ばれる刃の加工を任されました。しかし、ランナーには未知の素材が使われており、競技者のパフォーマンスを最大限発揮できる形状に加工するのは決して楽な道のりではありませんでした。

最高速度は130~140km/hに達し、「氷上のF1」と呼ばれるウィンタースポーツ、ボブスレー。選手の技術だけでなくソリの性能の差も勝敗の鍵を握ることから、近年は世界代表のソリ開発にはBMWやフェラーリといった超一流メーカーが協力しています。

「下町ボブスレーネットワークプロジェクト」は、大田区の町工場が総力を挙げて日本製のソリを作り上げ、世界のトップ企業の技術力に挑戦するプロジェクトです。その中で、ムソー工業はソリの底面に備える「ランナー」と呼ばれる刃の加工を任されました。しかし、ランナーには未知の素材が使われており、競技者のパフォーマンスを最大限発揮できる形状に加工するのは決して楽な道のりではありませんでした。

大田区の世界への挑戦は、

ムソー工業にとって未知の素材への挑戦から始まった。

大田区の世界への挑戦は、

ムソー工業にとって未知の素材への挑戦から始まった。

2011年、大田区産業振興協会の職員が「夢プロジェクト下町ボブスレー」と題した企画書を持ってムソー工業を訪れた。競技用ボブスレーに採用されるソリを大田区の町工場が結集して作り上げ、大田区のものづくりの力を世界に発信しようというものだ。

町おこしの一環として始まったこのプロジェクトでムソー工業が依頼されたのは、ソリの心臓部とも言える「ランナー」、すなわち氷上を滑る刃の加工だった。ランナーは金属でできており、全長は1mを超える大物の刃だが、その表面加工の精度の差がソリの滑走速度に大きく影響する。これまで数多の金属を加工してきたムソー工業ならば、ということで一任されることとなり、代表の尾針は二つ返事で「受けましょう」と応えた。


ところが、ランナーのベースとなる素材がムソー工業に届いた時、尾針は唖然とした。


「この金属は何だ?」


それまでに数百種類の金属を扱ってきた尾針でさえ、かつて見たこともない素材だった。しかも、国際ボブスレー連盟が定めるレギュレーションにより、使用できるのはこのスイス製の素材のみだという。


世界基準をクリアした素材である以上、品質は保証されているものの、素材の特性がわからない状態で加工することはできない。なぜなら、素材にはそれぞれ硬度や成分構成によって最適な加工方法が存在し、その特性を理解しないまま加工すると工具が折れてしまったり、素材を大きく傷付けてしまうリスクもあるからだ。

「一筋縄ではいかないな」

長年の経験からそう直感した尾針は、完成品までの長い道のりを想像し、改めて気を引き締めた。

2011年、大田区産業振興協会の職員が「夢プロジェクト下町ボブスレー」と題した企画書を持ってムソー工業を訪れた。競技用ボブスレーに採用されるソリを大田区の町工場が結集して作り上げ、大田区のものづくりの力を世界に発信しようというものだ。

町おこしの一環として始まったこのプロジェクトでムソー工業が依頼されたのは、ソリの心臓部とも言える「ランナー」、すなわち氷上を滑る刃の加工だった。ランナーは金属でできており、全長は1mを超える大物の刃だが、その表面加工の精度の差がソリの滑走速度に大きく影響する。これまで数多の金属を加工してきたムソー工業ならば、ということで一任されることとなり、代表の尾針は二つ返事で「受けましょう」と応えた。


ところが、ランナーのベースとなる素材がムソー工業に届いた時、尾針は唖然とした。


「この金属は何だ?」


それまでに数百種類の金属を扱ってきた尾針でさえ、かつて見たこともない素材だった。しかも、国際ボブスレー連盟が定めるレギュレーションにより、使用できるのはこのスイス製の素材のみだという。


世界基準をクリアした素材である以上、品質は保証されているものの、素材の特性がわからない状態で加工することはできない。なぜなら、素材にはそれぞれ硬度や成分構成によって最適な加工方法が存在し、その特性を理解しないまま加工すると工具が折れてしまったり、素材を大きく傷付けてしまうリスクもあるからだ。

「一筋縄ではいかないな」

長年の経験からそう直感した尾針は、完成品までの長い道のりを想像し、改めて気を引き締めた。

自社だけでできないことがあるなら、できる会社の力を借りればいい。

そのネットワークが、大田区にはある。

自社だけでできないことがあるなら、

できる会社の力を借りればいい。

そのネットワークが、大田区にはある。

尾針は、まずは素材の特性を知るために成分分析から始めようと考えた。ムソー工業には成分分析の設備がないが、これは問題ではない。大田区には、その技術を持った仲間がいるからだ。


協力を仰いだのは熱処理の専門企業。材料のエキスパートとして知られる同社の技術者が、スイス製素材の成分を徹底的に分析した。炭素比率、モリブデン含有率――データが示す特性から、これまで扱ってきた素材の中から最も近い性質のものを特定し、加工方法を検証していく。同時に、既存の海外メーカー製ランナーを3Dスキャナーで読み取り、形状データを取得。東京大学の摩擦工学の専門家の助言を受けながら、設計を最適化していった。

成分分析の専門家、スキャニング技術を持つ企業、学術的知見を備える大学――それぞれの強みを結集させ、加工への準備が整った。しかし、これはまだ序章に過ぎなかった。

いざ加工を始めると、新たな困難が待ち受けていた。同じ規格の刃でも、1枚1枚で反り具合が異なるのだ。ある素材で完璧に加工できたプログラムを別の素材に適用すると、歪んだ形状を生み出してしまう。成分がわかっても、個体差までは予測できない。

尾針は方針を変えた。素材を1つひとつ見極め、それぞれに最適な加工治具とプログラムを調整することにした。時間も手間もかかる作業だが、妥協すれば氷上で選手の命を預かる刃の精度が狂ってしまう。一本一本、丁寧に向き合った。

プロジェクトが始まってから何度も試作を重ね、改良を繰り返した。やがて季節は巡り、年月は流れ、試行錯誤の末についにランナーは完成した。

尾針は、まずは素材の特性を知るために成分分析から始めようと考えた。ムソー工業には成分分析の設備がないが、これは問題ではない。大田区には、その技術を持った仲間がいるからだ。


協力を仰いだのは熱処理の専門企業。材料のエキスパートとして知られる同社の技術者が、スイス製素材の成分を徹底的に分析した。炭素比率、モリブデン含有率――データが示す特性から、これまで扱ってきた素材の中から最も近い性質のものを特定し、加工方法を検証していく。同時に、既存の海外メーカー製ランナーを3Dスキャナーで読み取り、形状データを取得。東京大学の摩擦工学の専門家の助言を受けながら、設計を最適化していった。

成分分析の専門家、スキャニング技術を持つ企業、学術的知見を備える大学――それぞれの強みを結集させ、加工への準備が整った。しかし、これはまだ序章に過ぎなかった。

いざ加工を始めると、新たな困難が待ち受けていた。同じ規格の刃でも、1枚1枚で反り具合が異なるのだ。ある素材で完璧に加工できたプログラムを別の素材に適用すると、歪んだ形状を生み出してしまう。成分がわかっても、個体差までは予測できない。

尾針は方針を変えた。素材を1つひとつ見極め、それぞれに最適な加工治具とプログラムを調整することにした。時間も手間もかかる作業だが、妥協すれば氷上で選手の命を預かる刃の精度が狂ってしまう。一本一本、丁寧に向き合った。

プロジェクトが始まってから何度も試作を重ね、改良を繰り返した。やがて季節は巡り、年月は流れ、試行錯誤の末についにランナーは完成した。

大田区の町工場の底力。

その真髄は、足りないものを補い合う連携力と使い手目線にある。

大田区の町工場の底力。

その真髄は、足りないものを補い合う連携力と

使い手目線にある。

ムソー工業が日常的に請け負う試験片・試験治具の受託加工では、その素材の製品が何にどのように使われるかを知ることは少ない。基本的には依頼者の要望通りに加工して納品し、それ以降の用途は最後までわからないこともある。

しかし、下町ボブスレーのプロジェクトでは違った。ランナーには何が求められるか、選手自身に詳細に聞くことができたのだ。その中で各選手はランナーを手で磨いて最終仕上げを行うという話があった。これを聞いて尾針は「加工の段階で表面を可能な限りツルツルに仕上げれば、選手が磨く手間を減らせるのではないか」と考えた。

その仮説は的中し、表面の凹凸やザラつきを極限までなくして美しく仕上げたランナーは、選手から「手磨きがとても楽になった」と評価された

その後も調整を重ね、10年以上の歳月を経て下町ボブスレーネットワークプロジェクトは幕を閉じることとなる。このプロジェクトにはさまざまな教訓があったと尾針は話す。

「1つ目は、自社だけでできなかったとしても、仲間と連携すればどんな困難も乗り越えられること。そして2つ目は、製品の使い手の現場をリアルに知れば、より良いものづくりができるということです」

町おこしから始まった挑戦は、大田区の町工場が持つ技術力とチームワークを証明した。それぞれの得意を持ち寄れば、一社では不可能だったことが実現できる。尾針はそう確信している。

ムソー工業が日常的に請け負う試験片・試験治具の受託加工では、その素材の製品が何にどのように使われるかを知ることは少ない。基本的には依頼者の要望通りに加工して納品し、それ以降の用途は最後までわからないこともある。

しかし、下町ボブスレーのプロジェクトでは違った。ランナーには何が求められるか、選手自身に詳細に聞くことができたのだ。その中で各選手はランナーを手で磨いて最終仕上げを行うという話があった。これを聞いて尾針は「加工の段階で表面を可能な限りツルツルに仕上げれば、選手が磨く手間を減らせるのではないか」と考えた。

その仮説は的中し、表面の凹凸やザラつきを極限までなくして美しく仕上げたランナーは、選手から「手磨きがとても楽になった」と評価された

その後も調整を重ね、10年以上の歳月を経て下町ボブスレーネットワークプロジェクトは幕を閉じることとなる。このプロジェクトにはさまざまな教訓があったと尾針は話す。

「1つ目は、自社だけでできなかったとしても、仲間と連携すればどんな困難も乗り越えられること。そして2つ目は、製品の使い手の現場をリアルに知れば、より良いものづくりができるということです」

町おこしから始まった挑戦は、大田区の町工場が持つ技術力とチームワークを証明した。それぞれの得意を持ち寄れば、一社では不可能だったことが実現できる。尾針はそう確信している。